飛 行


テイク・オフ直前
テイク・オフ直前

 午前10時、全ての組立てが終了し、TVカメラや計器類その他を装着し、機体の自重が50kgにもなっている。自分一人では持ち上げられないのでシェルパに横を持ってもらう。いよいよスタートしようと「GO!」と谷めがけて飛び込むが、ん(?)動かない。よく見るとアンツェリンが、俺の背中をおさえて心配そうな目で見ている。俺は、おこったように、『GOと言ったら離せ』と言って、もう一度仕切り直しだ。二度目はうまくテイク・オフが出来たが、機体は、なかなか浮いてこない。まるでブレーキ、オイルの切れた車のように、手ごたえがない。もうあかんなあと思ったとたん、体がつり上げられる感じになり、翼長11mのHIMALAYAN TAKが空に飛び上った。

 ヤッター!!もう空に出てしまえぼ、心配ない。これで無事日本へ帰れる。長い間の夢がかなった。かなり年数がかかったが、やっと立てた男の舞台。こうなったら縦横無尽に飛び回ってやれ。カンチェンジュンガの巨大な岩壁をすれすれに飛び、大きな谷一つ越えたとなりの山タルンピークヘ空の散歩としやれこむ。谷越えの途中大きなナダレが発生していたので、機体に取り付けたVTRに入るように、上空を旋回する。7,200mでこの様子を見ていたシェルパは、あまり変速的な動きをするので、高山病でアホになったのではと心配したそうだ。


飛行中1 飛行中2
飛行中3
ヒマラヤを飛ぶ著者

 今回の飛行の中で一番感動的だったことは、ヒマラヤ大鷲と飛べたこと。氷河の上にうつった自分の翼にもう一つ、小さなシルエットがぴったりとついてくる。なんだろうなあと横を見ると2mぐらの翼の鳥が、悠然とついてくる。ヒマラヤ大鷲だ。練習の時から時々見かけたやつだ。「君はだれや?」「わしか!ワシや。」「ところで、君こそだれや?」「俺か!ナオタカや」「ほう、タカの珍種か」と、こんなジョークが飛び交いそうな出会いだ。こうなったら鷲と、人間の飛びくらべだ。10年間、身につけた飛行術を、みてくれとばかりに、急上昇、急降下、急旋回とやっているうち、あきれたのか、遊びにあきたのか、いずこともなく消えた。

 そのうち狩野隊長が、雲が邪魔して、機体が見えないと無線で言ってくる。こちらから、すっかり見えている。急降下して頭上すれすれをすっ飛んでやる。べースキャンプでは、シェルパが興奮して、なにやら、わけのわからん言葉で、わめいている。

 5,100mのランディング(着陸)ポイントヘ無事着陸。飛行時間18分40秒。途中で上昇気流もあり、もっと飛んでいたかったが、ヒマラヤ大鷲と飛行術くらべをやっているうち高度ロス。ランディングすると仲間の隊員やシェルパが、かけよって来てくれるが、俺の気持の中は、いつもの練習が終わった時のように、さめている。

 一番うれしかったのは、TV番組のつごうで、一足先にネパールの軍のヘリコプターで、カトマンズヘと向かったこと。二週間もかかって歩いてきた行程を、たった3時間で飛んでゆく。ヘリコプターが、カトマンズ空港に降りたとたん、うれしさがこみ上げてきた。


祝賀会
祝賀会(左から岡、鈴木、著者、菅沼、安)
重広恒夫さんと
日本100名山で有名な重広恒夫さんと

 3ヵ月ぶりに、風呂に入れる。ビールが飲める。大好物の中華料理が食べられる。それよりなにより、日本で心配している家族に、無事を電話で知らせられる。ホテルに着くと、すぐ家に電話を入れる。と、どうした事か、ニュースはすでに知っていて、あまりびっくりもせず内心がっかり。早く帰ってこいが、せめてもの救い。気をとりもどし、三ヵ月間夢にまで見たビールの一気飲みをやってみる。これは天国、天国。8,000mでこれをしたら、ひっくり返って死んでしまう。それから風呂に入ると、砂とアカがすごくて2回も入り直し、入山前にカトマンズにあずけていたウェアーに着替え、中華料理をハラ一ぱい食べ、ぐっすりねむった。

 こうしてみると、極地に何ヵ月もたえられるとゆうより、そこで生活することが大好きな、冒険の世界の大先輩達とはちがって、俺はやっぱり、ただの男だったのか。

 昨年の5月、ハンググライダーの距離飛行記録を持っているアメリカ人、ラリー・チュードが俺にサインしてくれた。

 THE HIGHEST FLYING HUMAN。
 世界で一番高い所を飛んだ男と。

 1984年8月8日、日本TV、水曜ロードショーで、放映されたので、見た方もいると思います。最後に私の夢の実現に協力、励まして下さった諸氏に感謝を表明します。

1985年12月19日 大阪枚方自宅にて

(ただの なおたか・冒険家)

(測量 1986年2月号より転載)


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